思い出話々

このページでは、米原万里ゆかりの方が思い出を披露してくださいます。
金平茂紀さんはTBSモスクワ支局に赴任が決まると、ソ連についてのレクチャーを万里から受けるよう上司に命じられ、二人は知り合う。そしてゴルバチョフに対するクーデターからソ連崩壊までの激動期、モスクワで何度も一緒に仕事をした。このとき育まれた信頼と友情は万里が亡くなるまで続いた。
2018.8.1

◆金平茂紀
死者と生者のバトン・リレー(1)


  この年齢になると、身近で先に逝く人々を見送る機会が本当に多くなった。米原万里さんの場合は、あまりにも早く逝ってしまった。あれからもう足かけ12年もたつのに、まだまだ万里さんが、あの声とあの笑顔、あの正義感とともに、隣にいるように感じられることがある。そんなことを思い浮かべてみると、僕たちの「生」とは、死者からバトンリレーされたものをたくさん受け継ぎながら成り立っているんだなということを実感するのだ。   2017年の3月、僕が10年以上エッセイを連載している『調査情報』という雑誌の担当編集者が亡くなった。金子登起世さん。55歳という若すぎる死だった。ガンを患っていた。その雑誌での連載『メディア論の彼方へ』は今も続いていて、とても大事にしている連載だ。ほとんど無報酬だが書き続けている。そもそもこの連載のスタートを持ちかけてくれたのは、金子さんの前任者の宮田都さんという編集者だった。彼女もガンで早逝した。2006年のことだ。まるで米原さんの後を追うように同じ年に時をおかずして亡くなった。その彼女の葬儀で僕は後任編集者となる金子さんに出会ったのだった。宮田さんも金子さんもとても鋭い感覚の編集者だった。彼女たちに多くを支えられた。   僕がTBSのワシントン支局長だった時代、アメリカのブッシュ政権がイラク戦争を始めた。そのさなかに日本人ボランティアたちが現地で武装勢力に誘拐されるという事件があった。何ということか、その際に日本国内で巻き起こったバッシングの嵐に対して「あまりに理不尽じゃないか」という怒りの感覚を共有できた数少ない編集者の一人が宮田さんだった。さっそく『調査情報』誌上でその理不尽さに異議を申し立てようと、万里さんと僕で、鎌倉←→ワシントン電話対談を企画した。その際の担当編集者が宮田さんだった。   先日、この電話対談に関して思わぬ参加者に出くわした。「米原さんの鎌倉のご自宅まで出向いて、国際電話をつなぎ、録音を設定したのは私ですよ」。こう話してくれたのは同じく当時『調査情報』に在籍していた編集者・飯田みかさんだ。飯田さんによると、憧れの米原さんの鎌倉邸にお邪魔した時は、緊張でドキドキしていたとのこと。素敵なお家だったと。その対談の頃から宮田さんはすでにガンとたたかっていたが、同病同士ということからか、万里さんとも交流があったようだ。   僕の都立西高校時代の同級生に、岡みどりさんという人がいて、僕にとっては一方的な憧れの人だったのだが、その後、出版業界で活躍していたことは風の噂で知っていた。この業界は実は案外狭くて、やがて人を介して岡さんと再会することになった。岡さんは平凡社の編集者を経て、文藝春秋に移り、村上春樹の担当をしているとのことだった。その岡さんがガンで亡くなったのは2010年7月のことだ。僕がニューヨークから帰国する直前の時で、共通の友人からのメールでその早すぎる死を知った。2017年の秋、彼女の仕事の助手をしていた方からなぜか「一緒にお墓参りに行きましょう」との連絡が入って出向くことになった。正直、突然、死者から連絡を受けたような気持になったのだが、帰宅して岡さんとのやりとりを調べてみたら、米原万里さんの死をめぐってメールを交換していた。何だかとても複雑な気持ちになったが、その岡さんも今は小平市のお墓に眠っている。
(つづく)

    
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